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【市民ライター投稿記事】北上のお殿様ってどんな人?和賀氏の史跡を訪ねて

2022年6月23日

市民ライター 三宅 優子

こんにちは、市民ライターの三宅優子です。
今回の記事では、はじめたばかりの私の自由研究「私の知らない和賀氏」の一部をご覧いただきたいと思います。

※今回の記事の内容には一部伝承・言い伝えによるものを含みます。ご了承のうえご覧ください。

 

 

北条義時が主人公の今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、みなさんはご覧になっていますか?序盤の舞台は私の地元、伊豆半島でした。平治の乱において源義朝が討たれ、流罪となった源頼朝が20年の流人生活ののちに目代の山木兼隆を討つため兵を挙げたことから伊豆は歴史の表舞台となります。

 

 

 

▲静岡県伊豆の国市 北条義時墓所のある北條寺

 

 

伊豆の東海岸、温泉で有名な伊東市には、頼朝の監視役であった伊東祐親(いとう すけちか)の三女(伊豆の伝承では八重姫と呼ばれる。この記事でもそれに準じて以下八重姫とします)と流人時代の頼朝にまつわる史跡が残っています。

 

 

伊東温泉の市街地を流れる松川沿いに、流人であった頼朝公が八重姫との逢瀬のため日が暮れるのを待ったという「日暮の森」、その対岸には二人が逢瀬をかさねたと伝わる「音無(おとなし)の森」があります。

 

やがて頼朝と八重姫の間には男児、千鶴丸が生まれます。しかし、京での大番役の勤めを終えて伊東に戻り娘が頼朝と子まで成したと知った祐親は、平家からの叱責をおそれてこの千鶴丸(せんつるまる)を松川の上流にて沈めて殺してしまいます。松川上流で殺された千鶴丸の遺体はやがて川をくだって海岸に流れ着き、それを見つけた地元の漁師が石の上に遺体を乗せて衣を乾かし、丁重に葬ったとされる伝承が、産衣石とよばれるおおきな岩とともに伊東市富戸に残されています。頼朝はその後北条政子を正妻として迎え、やがて平家を滅ぼして鎌倉に武家政権を築くことになります。

 

 

ところが北上に来てからしばらくした頃、何か別の調べ物をしていた折に「頼朝の子である千鶴丸が奥州に逃れて和賀氏の始祖となった」という記述を見つけて大変驚きました。え、伊東で落命していないどころか、北上に来たの?私の頭の中は大混乱です。九郎判官義経の北行しかり、悲しい最期を遂げた人物には救いのある逸話がつきものですが、はたしてこれはどうなのでしょう?

 

 

はるか遠くの地元伊豆と北上になにかしら縁があるように感じたのをきっかけに、そういえば全然知らない和賀氏についてちょっと勉強してみようと思い立ちました。

 

 

というわけで、前置きが長くなりました。

 

 

▲静岡県伊東市、伝伊東館跡にある現在の伊東市役所 伊東祐親像

 

 

まず和賀氏の始祖については諸説あるようですが、とくに北上市史第二巻で詳細にまとめられており、大変参考になりました。

 

 

私が見つけて驚いた千鶴丸=和賀氏の始祖というこのパターンは最終的に「哀れに思った家人たちが逃し隠して育ていたのを、しばらく後に頼朝に謁見して和賀郡を賜る」となるのですが、物語の導入部分「伊東に身を寄せる頼朝が、祐親の娘と通じ男児(千鶴丸=忠頼)を授かる。また祐親にその妻(八重にとっては継母にあたる)が蛭ヶ小島の流人頼朝が父親であると告げ口する」という話の流れは、「曽我物語」のストーリーと合致しています。

 

 

現在、和賀氏は小野横山党といわれる小野 篁(おののたかむら)の子孫であるといわれているそうです。たしかに岩手県は古くから名馬の産地ですし、代々小野牧別当職を務めた馬の扱いに優れている家系がこの地方の地頭に任じられるのはストンと腑に落ちる感じがします。

 

 

しかし、はじめて和賀を名乗ったとされる義行の父義季の娘のうち一人は北条義時の子である重時の側室荏柄尼(えがらのあま)であり、鎌倉幕府の中枢に大きく関わる人物であったことは間違いなく、特に北条氏とは強いつながりがあったであろうことがうかがえます。地元にいた頃北条氏にまつわる史跡を訪ね歩きそれなりに鎌倉もぶらついていたのですが、恥ずかしながら荏柄尼の出自までは気にしたことがなかったので今回こうして調べたことではじめて知ることも多くありました。やはり視点を変えたり、視野を広く持つことは大切だなと痛感しました。

 

 

まだまだ何も知らないに等しい知識しかないんですが、調べれば調べるほどおもしろいじゃないですか、和賀氏…。

 

 

それにしても、こうして調べてみても、自由研究を始めるきっかけとなった

 

 

「千鶴丸が生きて奥州に来て、本当に和賀氏の始祖となったのか?」

 

 

という疑問はすっきり解決!とはいきませんでした。しかし事実と異なるとしても、こういった伝承が生まれて、語り継がれてきたのには何か理由があるのだと思います。その背景を知るためにも、引き続き和賀氏についての勉強を続けてみようとおもいます。

 

 

さて、和賀氏について勉強したいと思っていたところ、二子八幡神社宮司の和賀匡彦(わがまさひこ)さんをご紹介いただきました。さまざまな興味深いお話を聞かせていただき、後日実際に和賀氏の居城であった館跡などもご案内いただきました。この場を借りて、改めて御礼申し上げます。

 

 

色々お話を聞いた中でも特に私の興味を引いたのが、鎌倉の材木座にある日本最古の築港遺跡である和賀江島(わかえじま)の工事を担当した平 盛綱(たいらのもりつな)という人が、和賀の豪族和賀盛綱であり、その屋敷が和賀江(現在の材木座)であるというものです。

 

 

和賀江島は三代執権の北条泰時のときに作られた人工の港で、私も過去に訪れたことがありました。和賀江島の「和賀」について、この名前について長いこときちんと調べもせず「和田」が転じたものなのかな?くらいの認識でいたことを白状します。全然違いました。私、もうずっと前に和賀氏と出会ってたんだなあ…という気付き。

 

 

また、和賀江島についてまとめられた資料のなかには酒匂川(さかわがわ)沿いに鬼柳の地名があり、それが北上の鬼柳という地名のもとになった説もあるとありました。地図で確認するとたしかに現在でも小田原市内に鬼柳の地名があります。北条、和賀江、鬼柳……北上と私がすごしていた場所とこんなにつながりがあるなんて!

 

 

この鎌倉材木座の和賀江島では毎年市民による清掃活動が行われているそうで、和賀江島にゆかりの和賀氏が中世治めていたご縁から、北上市の方もこの活動に参加されているそうです。

 

 

▲材木座のある神奈川県鎌倉市内、鶴岡八幡宮 大銀杏倒木より3ヶ月前の様子

 

 

また、北上市内各所に和賀氏ゆかりの場所がたくさん残っていることを伺いました。特に八所八幡と呼ばれる神社群に興味をひかれました。結構広範囲なので全部回るには少し骨が折れそうですがいつか行く神社リストに加えることにします。

 

 

和賀氏について、膨大な歴史と物語の中からほんの少しだけ予習をしたところで次はフィールドワークです。実際にゆかりの地を訪ねて歩き、過ぎ去った時に思いを馳せる。贅沢ですね。

 

 

まず1日目は鬼柳から岩崎まで。いつもなら車であっという間に通り過ぎてしまうところを、史跡めぐりの強い味方、スマートフォンの地図アプリとカメラを片手に歩いてみます。スタート地点は鬼柳簡易郵便局周辺、目標の折り返し地点は岩崎城。元気よく歩き出します。

 

まず北上和賀線から少し南下し、水が入ったばかりの田んぼのなかを西に向かってずんずんと進んでいきます。まず見つけたのは鹿島神社。

 

 

▲鹿島神社

 

 

岩手県指定の文化財となっています。覆いがされていますが、中の社殿は美しい作りのようです。このあたりはかつて鬼柳氏の居城で、もとは別の場所に祭られていたのが時代を経ていまの場所にうつされたそうです。和賀氏の頃から祭られていたとも考えられている、とのこと。

 

 

続いて東北自動車道の高架をくぐり、さらに西へ進みます。上鬼柳公民館を過ぎた交差点を左手に進むと、白鳥神社があります。残念ながら由緒書(ゆいしょがき)がありませんでしたが、とても雰囲気のいいお社でした。

 

 

▲白鳥神社

 

 

本郷川沿いを歩いていると「六軒湧水さかさ水」の案内板を発見、予定にはなかったのですが、素敵そうなので見に行くことにします。

 

 

▲湧水の様子

 

 

期待通りです。私がもっと上手に写真を撮れる人だったら、きっとこの場所の素敵さが伝えられるのに。みなさんこれはぜひ実際に自分の目で見て、せせらぎの音を聴きに行ってください。

 

 

六軒をすぎると、地図アプリに見渡神社(みわたしじんじゃ)という神社が表示されました。あまり耳なじみのないお名前だけれど、どんな神様なのかな?と思って近づいていくと…

 

 

▲見渡神社の鳥居前

 

 

お狐さまです。お稲荷さんなのかな?と石段を登って社殿の前の由緒書を見るとなるほど、ご祭神は保食神、穀物の神様です。もともとはあるお家でお伊勢参りに出かけたきり戻らなかったご家族を祭っていた氏神さまだったのが、時代を経るに従って地域の人たちに求められて今の形になり名前も改められたようです。しかし、段丘の上から一帯の田んぼを見守るように鎮座される姿はまさしく見渡神社という名前がふさわしく、豊穣の神さまだなあといった感がありました。こちらも大変すてきなお社でした。

 

 

 

▲境内から鳥居越しに鬼柳地区を望む

 

 

橋を渡らなければいけないので一旦北上和賀線にもどって、夏油川を渡ります。車で走っている時は気が付かなかったけど橋に兜のモチーフが。和賀氏をイメージしているのかなあ、と思いながら対岸へ。橋を渡って割とすぐ、左手の丘の上に八幡神社があります。

 

 

実は場所がちょっとわからなくてまごついていたところ、社地の管理をされているという方に会い、登り口を教えていただきました。

 

 

▲八幡神社。鳥居をくぐり、社殿までは坂道を登る

 

▲八幡神社社殿

 

 

八幡太郎義家の勧請(かんじょう 注:神仏の来臨を願うこと。また、神仏の分身・分霊を他の地にうつして祭ること。)と伝わる八幡神社。前九年の役のとき、源氏の氏神石清水八幡宮を勧請、勝利を祈願された社を、その後和賀氏の時代に再建。十三世紀に入りこのお宮を和賀領内八カ所に別遷したのが、八所八幡、とのことです。

 

このあたりで日が暮れかけてきたので、続きは次回のお楽しみにするとして、東へ戻ります。帰り道、今度はローソンの手前で神社の参道の入り口を発見。もう今日はまっすぐ帰っとこうと思っていたのに、またふらふらと寄り道をします。住宅地を抜けるとぱっと視界が開けて田んぼの中に鮮やかな鳥居が美しい社叢(しゃそう 注:境内を囲うように密生する林のこと)が目に入ります。

 

 

▲二前神社の社叢

 

▲二前神社社殿。鳥居をくぐると境内は開けていてかなり明るい

 

 

岩崎二前神社。前九年の役よりさらに前、坂上田村麻呂が蝦夷征伐にあたり陣屋(じんや 注:軍勢が駐屯する拠点、軍営)にした土地とのこと。創建は九世紀ですが、和賀氏の時代にも篤く信仰されたお社だそうです。ここでデジカメのバッテリーが力尽きました。無念…。この日はこれで本当におしまいにして、なんとか日没前にスタート地点に戻ることができました。

 

 

さて、ここからはさらに別の日です。
先日お話を聞かせていただいた和賀さんに、二子、黒岩方面の史跡をご案内いただきました。まずは飛勢(とばせ)の別名もある二子城跡。和賀氏の本城であったといい、実際に歩いてみると大きな規模の城であったことが想像できます。

 

 

▲二子八幡宮

 

 

現在八幡宮がある曲輪(くるわ 注:土塁、石垣、堀などで囲われた区域)跡は、縄張り図を見ると北、西、南にはぐるりと空堀が巡らされており、東側は3〜4の段になっていています。上から覗き込むとなかなかの斜度です。

 

 

▲二子城跡から成田更木方面

 

 

社殿の北へ抜けると曲輪の端に見晴台があり、北上川もよく見えます。現在は木がしげっていますが山城として利用されていた頃は写真手前に写っているような木々はなかったはずですので、より広く北上川の水運を監視することができたのでしょう。

 

 

▲白鳥神社

 

 

二子城内白鳥館の跡地には和賀神社と白鳥神社が鎮座されています。
白鳥神社は宮城県の刈田峯神社(かったみねじんじゃ)を勧請したものと伝わり、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭っています。日本武尊の伝説にちなむ白鳥信仰というとやはり東海三県のイメージがあり、不思議な気もしたのですが調べてみるとたしかに宮城県でもさかんに信仰されており、南東北に残る東北遠征の伝説の存在を感じました。

 

 

▲和賀神社

 

 

白鳥神社の東側、和賀神社は、この度参考にさせていただいた書籍のうちのひとつである、「我等が祖和賀氏」を出版された二子出身の事業家及川銀太郎氏が創建されました。

 

 

▲北上と鎌倉をつなぐ桜の木

 

 

和賀神社前に植えられた「舫(もやい)の桜」
展勝地100周年を記念して、和賀江島のある鎌倉市の桜が植えられています。ここ、和賀神社前を含めて市内5カ所に植樹されたそうです。次に鎌倉を訪れる時はきっと、今までと違うものを感じられるような気がして楽しみです。

 

 

そして、和賀氏が二子に移ってくる前の城であった、更木館、黒岩城跡にもご案内いただきました。

 

 

▲更木館跡案内板

 

 

更木館は現在「更木しらゆり公園」として整備され公園内にさまざまな花が植えられています。こちらは入口のみ確認しただけなので後日じっくり見て回りたいと思います。

 

 

▲黒岩城跡

 

 

更木館よりさらに前、和賀氏がはじめに築いた城館とされる黒岩城跡(岩崎塞)です。黒岩なの?岩崎なの?と混乱してしまいましたが、昔このあたりは岩崎と呼ばれていたのですね。

 

 

▲館跡にたたずむ社と巨木

 

 

かつての館跡に暮らす人々をいまも見守るように神様が祭られていらっしゃいました。

 

 

さて、今回の和賀氏について学ぶフィールドワークはこの辺で一旦終了です。まだまだ知らないことばかり、行ってみたい場所ばかりで終わりはまったく見えませんが気長に地道に調べて歩いていこうと思います。

 

 

最後に、代々大切に史跡等の管理をしてくださっている方々、私有地のお社や史跡を公開してくださっている方々、そしてそれらを資料としてまとめてくださった先人のみなさまにお礼を申し上げて今回の記事の締めとしたいと思います。

 

 

【参考図書・資料一覧】
岩手の歴史論集Ⅱ 中世文化 司東真雄 著
北上市史 第二巻 古代(2)・中世 北上市 編
北上和賀の伝え 松本叡 編
五輪壇〜和賀氏の墓所〜 和賀氏四百年祭実行委員会 編
中世和賀氏の伝承遺跡めぐり 伊奈晴太郎 著
二十一世紀への遺産 和賀氏の歴史 和賀氏四百年祭実行委員会 編
源姓和賀家系図ト其考証要録 佐藤暲 共著 佐藤佐 共著
和賀氏小史 岩崎城を偲ぶ会 及川真清 編
和賀氏四百年史 司東真雄 著
「和賀」ふるさとは「和賀江島」 鎌倉市材木座 蔵並英夫 編
わがまちの神社とお寺 和賀町老人クラブ連合会 編
我等が祖和賀氏 及川銀太郎 編
われらが祖和賀氏ものがたり 和賀氏四百年祭実行委員会 編