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【市民ライター投稿記事】みどり濃き、知られざる遺跡の里「臥牛」
みどり濃き、知られざる遺跡の里「臥牛」
6月のある日、午前中はスッキリしない天気。
午後1時近くに昼食をとって、少し休んでから外へ出るとスッキリ晴れていて気持ちがいい。
午前中から今日は、臥牛地区へ行ってみようと思っていた。これからご紹介するが、もしかすると北上市にこんな場所があったのか・・・と思われる人もいるかも知れない。
どんな機材で行こうか?普段使い慣れたカメラにしようか?それとも・・・
ビデオカメラ!
ビデオカメラと決めて三脚も持っていこう!ちょっと重いけど。
機材全部を愛車のダイアナくんの後部座席に乗せて駐車場を出る。晴天のこの日、普段よりゆっくりとしたペースで気持ち良いドライブを楽しんだ。幸い前後には車がいない。
昭和橋を渡り、更木に入って平成大橋から伸びる道路と交差して右折する。少し走ると登り坂になって急なカーブが続く。登り切ってから下れば臥牛地区へ入る。以前来た時は歩いて里山を撮影した。
今回も同じように・・・撮ればいいか・・・いや!
そのときとは違う!
市民ライター若山利夫として、このみどり濃き里山!臥牛地区を紹介しよう!ここへは何度か撮影に来たことがある。これまでとは少し意気込みが違う?かもしれない。
愛車から機材を取り出し西の方角へカメラを向ける。
北から南へカメラをゆっくり振っていく。里山の緑が青い空との美しいコントラストを見せている。ここでワンカット。
その後、田んぼを挟んで西側へ移動!東側の斜面を北から南へ・・・ワンカット。
そこから少し上っていくと、「土砂災害に注意!」の看板が立っていて、中山間地の一つの現実を知らされた。
さらに上っていくと「若山牧水滞在の地」という立派な碑が立っていた。
牧水夫妻が、その門下であった福地房志宅へ二泊されたことがわかる。ただし、11月というからこのあたりはすでに冬の装いだったに違いない。そして泊まった家がどれなのか?
道沿いに今度は下っていくと軽トラや軽のバンが立て続けに通っていった。さて!どこから来たのだろう。
下って北側に広がる田んぼを撮ってみた。それにしてもいい天気だ!奥に見える山々は、もう花巻市であろう。
少し下ってから崖に生えている名も知らぬ草。唯一知っている成長したワラビを撮ってみた。もちろんもっと沢山生えていたが一本だけアップにしてみた。
もっと下ると三叉路になっている。さっき車たちは左手から出てきたようだが・・・どこへ繋がっているのだろうか?右手に行けば以前通ったことのある道でわかっているが、左手の道は・・・?
ここでグーグルマップのお世話になって、道がどこへ繋がっているのか調べた。
「やった!」行きたいと思っている赤い欄干の橋のところへ行けそうだ。軽トラたちが通ってきたであろう轍に誘われながら途中写真を撮りながら進む。
赤い欄干の橋を目指して歩を進めるとT字路になっているところに「あずま海道」の道標。「あずま海道」がこんなところへ・・・と思いながらワンカット。左手は山の方へ・・・神社があるのか(調べると願行寺という寺へ続いているようだ)・・・右手は目的の橋のある道の方へ向かっている。クルミ?やクリの大木を左手に見て赤い欄干の橋の道へ出ると、まず目に飛び込んできたのが大きなクリの木だ。まだ花は開花していないが房がいっぱいついている。
その橋の中央まで進もうとしていた時、真っ白いサギが飛んでいった。私を避けるように・・・
橋の中央部分から川上を見ると猿ヶ石川の小さな岩場に陣取って獲物を狙っている様子。私からの距離もかなり遠い位置である。ズームをいっぱいにして撮ってみる。いくら手ブレ防止が働いてもなかなか厳しい!
ところでサギは、その優雅な姿とは別の顔があり、肉食だそうだ。大きな体になったら恐竜のようになるかも・・・などと想像を巡らしてみる。
そこから愛車ダイアナくんの待っているところへ戻りながら、気の向くままに撮影。それが桑の実のワンカット。幼少の頃、山の中へ入って桑の実を見つけては、口に入れて紫色になっていたことを思い出す。それを見つけて、上級生から「桑の実を食べると疫痢になるぞ!」と言われたものでした。(誰も疫痢にはならなかった)
さらに東へ・・・次に見つけたのは臥牛遺跡の標柱。しかし、遺跡らしい痕跡は見当たらない。ネット検索にかけると奈良文化財研究所の全国遺跡報告総覧に記載はあるが発掘調査報告としては「掲載されていない(発掘調査報告書総目録の掲載対象外)」となっている。それはそれとして縄文人がこの地で暮らしていた様子を思い描いてみる。皆さんも来てみて想像してみるときっと豊かな気持ちになれるだろう。
さて、私が臥牛地区を知ったのは、今は故人となったある先輩の友人が、ここに数人いたことで一緒に挨拶に伺ったことがあったからである。その先輩の運転手としてであった。
その先輩がいなければ私は、今でも通り過ぎるだけの所だったかもしれない。
平成大橋が載っていない「更木地区 ふるさとマップ」を見ると、コウホネ群生地や白ゆり群生地も更木・臥牛地区にはあるようだが・・・今はどの様になっているのか。
更木・臥牛地区はいわゆる田舎の、決して便利とは言えない地域だ。しかし、このような地は、これから貴重な土地になるのではと直感が働く。理由は特にない直感だ。
臥牛地区、そこには濃いみどりの山や野、そして川が、縄文文化の時代からあり続けているのだ。それは豊かな実りもきれいな川もあり、野生生物もたくさんいたであろうことを教えてくれた。それゆえ縄文人が、暮らすことができたのであろう。
今ここに暮らす人々も、やがて年老いていなくなる。しかし、このみどり濃き臥牛の地に暮らし続ける人がいる限り、それを支える北上市であり北上市民でありたい。そして、その足跡は残されるであろう・・・縄文人のそれが残されていたように・・・。
誰ひとり取り残さない北上市を創る!持続可能な・・・は、誰ひとり取り残さないための目標だ。隣の人も取り残してはいけない!自分も隣も、良くなるようにしないと目標は達成できない。
行政区はあるが、土地自体は連続している。隣の行政区は花巻市。
地続きの北上市と花巻市だから・・・。協働してもいいかもしれない。もしかすると縄文期、臥牛の民と東和の民は互いに助け合って交流していたのかもしれない。ともに繁栄していくということを願って協働していたかもしれない。
そんな妄想を描いている市民ライターでした。